diary日 記 2024 / 02/ 01

大西洋に面した豊饒なるボルドー

はじめてボルドーの町を訪れたのは、40年近く前でした。そのときは車で、オート・ルート600キロをひた走りました。今回はパリのモンパルナス駅から最短のTGVで、2時間ちょっと。直線距離で500キロを超える、彼の地への日帰り旅行が実現しました。ワイン王国フランスは、ボルドーとブルゴーニュが二大産地です。他にも、リヨンあたりから南下し、一直線に地中海にそそぐローヌ川両岸のワイン。フランス最長、ロワール川周辺のワイン。最近、とみに品質が向上したスペイン寄り、ラングドック地方のワイン。独仏で分捕り合戦を繰り返していたアルザス地方の、鶴の首のように細長いボトルが特徴のワインもありますし、ジュラ山脈で採れるワインも珍重されてます。諸々ございますが、ぶどうの作付面積、収穫量、販売数や販路など、質実ともにボルドーが圧勝。一方のブルゴーニュは地理的にパリに近かったので、フランス革命の余波をもろに被りました。そのおかげで銘醸ぶどう畑が、小作人に分割譲渡されたので、同じ名前のワインに作り手さんたちがたくさんいます。細分化された畑ごとの、小規模生産がブルゴーニュ地方ワインの特徴です。対するボルドーはといえば、大西洋を挟んだ大英帝国のおかげでイギリス人丸抱え。歴女の面目躍如とばかリに、ボルドーと英国のご縁をここで簡単に説明させてください。1453年、百年戦争の終結までの約3百年間、アキテーヌ地方と呼ばれるボルドーからパリ近くまで広大な領土が英国領でした。その発端になったエピソードがなかなか面白いので、お聞きください。時は1152年、第二回十字軍に出兵した、別の名を聖王と呼ばれたフランス王、ルイ7世のお妃が原因でした。フランス初代の恋愛詩人といわれているアキテーヌ公を祖父に持つだけあって、十字軍に同行したエレオノール妃はマジメすぎる夫のルイ7世と離縁。原因は王妃にあり、王が連れていたアラブ人青年との不倫でした。バツイチになり彼女の欲望はとどまるところを知らず、11才年下の牡牛のようにがっしりした英国貴族と再婚。その彼が、なんとプランタジネット朝の開祖、ヘンリー2世として即位してしまったからさあ大変。当時のセレブたちの習慣に従い、エレオノール王妃の持参金だったフランス西南部からパリ近郊に至る膨大な領土が英国領になってしまったわけです。1453年、百年戦争の終結により領土がフランスに返還された後も現在まで、ボルドーのワイン産業に英国が深くかかわっているイわけです。イギリス人がワインを作らなかったのは、ボルドーがあったからだと言われております。ボルドレたちの容姿も、アングロサクソン系が混ぜってか、ラテン系が多いパリっ子たちより背が高くてノーブルに見えます。

訪れたガロンヌ川沿いに広がるボルドーの町は、どっぷり冬景色のパりとは打って変わって快晴。パリからのTGVが到着したボルドー・サン・ジャン駅前広場は、人口密集地帯でした。すぐ前の道路に、ひっきりなしに往来する行き先別トラムに人々が殺到。ガロンヌ川に面して、世界遺産に登録されている大劇場や現代美術館、ブルス広場がある一角を私も目指しました。パリも歴史建造物の宝庫ですが、ボルドーのそれはリッチ度が上です。パリっ子に一番愛された王さま、アンリ4世の侍従であった『随想録』のモンテーニュがいて、『法の精神』のモンテスキューがいた都市、ボルドーのまばゆいばかりの壮大さに感動。昔、訪れたときのセピア色した印象が、金箔を配した荘厳な建物群として上書きされたかのようでした。ガロンヌ川まではトラムを乗り継いで行きましたが、帰りはあたりをゆっくり眺めながら歩いて駅に戻りました。高台になった一角に、上物ばかりが並んだ蚤の市が出ていたのもラッキーでした。買わない観光客が訪れるパリの蚤の市とちがいボルドーのそれは、馴染みの骨董屋さん目当てに集うマダムたち。彼女たちにつられて私も、10本一束に麻紐で括られた、美しい細工の銀のスプーンをボルドー土産に買いました。ひと休みしたかったので、空いていそうなカフェに入りました。サンドイッチとカフェを注文し、帰りがけに<パリ・オリンピック>について聞いてみました。すると、すかさずこう返ってきたのは笑えました。「そうか、マダムはパリから来たのね。ここはボルドーだもの、オリンピックとは関係ないですよ」と。