diary日 記 2023 / 09/ 01

漱石山房記念館

今回の「漱石山房記念館」行きは、神楽坂で生まれ育ったおふたりと私の3人でした。地図上では早稲田通りを外苑東通りで左折のはずですのに、勝手な私どもは「神楽坂通りを直進して、外苑東通りを左折でしょう」などと道案内。神楽坂通りはもともと、千代田区の靖国通り田安門の交差点から杉並区青梅街道の井草交差点までの約15キロある早稲田通りのごく一部。今、調べましたら、神楽坂通りは350メートルに満たない短い区間でした。外苑東通りを左折して、最初の角を道なりに右方向に進んでください。バナナの木と見紛うほど立派な芭蕉の木のすぐ奥に、漱石の終の棲家になった目指す建物があります。繁華街のイメージとはかけ離れた、新宿区の面目躍如といってもいいかもしれません。明治40年から大正5年まで、漱石の作家生活で最も脂がのった晩年の9年間を過ごした地ですから本好きにはたまりません。明治に建てられた部分と現代の和風家屋の粋をアレンジした上品な家屋です。白木の数寄屋造りに仕立て、バリアフリーも考慮された優良記念館といったところでしょうか。炎天下のせいか来訪者も少なく3人で展示品に見入り、古き良き情緒的な館内に感動。漱石が暮らしていた当時のままを残した、書斎に並んだ丁度を眺めました。私以外のおふたりは、お生まれも育ちも神楽坂ですから、漱石と同じ新宿っ子。ところどころに残る部屋の設えに、懐かしさを禁じ得ない風でした。それにしても座り机のサイズの小ささが、当時の人々のお行儀の良さを物語っている気がいたしました。こんなにインテリジェンス香る贅沢なスペースを、私たちが独占していいのかしらと一抹の不安。ロンドンから早期帰国して住んだ千駄木の家は明治村に移築されているそうですから、ここが漱石の創作活動も含めて、暮らしぶりが最も実感できる場所です。明治村に移築された千駄木の家は、先住者がなんと森鴎外でした。鴎外派か漱石派か、あなたはどちらでしょうか? よく対比される日本近代文学の二大巨頭ですが、生まれ育った新宿区に終の棲家が記念館として残る漱石の方が人気は上かもね。先月のこのページがヘミングウェイでしたから、はからずも文学者が続いてごめんなさい。

職業作家となった漱石はこの地で、創作活動のピークを迎えます。『三四郎』、『それから』と『こころ』のあたりですが、この地に移った寸前に発表された『坊ちゃん』が全作品の中で最も親しまれているのではないでしょうか。松山出身の正岡子規との、出会いから生まれた作品にちがいありません。【坊ちゃん団子】が東京でも買える、松山名物になりました。このところ偏差値がぐんぐん上がっている、神楽坂にある東京理科大学前身の物理学校を卒業した江戸っ子で、好人物の主人公の坊ちゃんが松山の中学に赴任。銭湯で泳いだこととかお蕎麦屋さんで大食いしたことなど、坊ちゃんのひょうきんキャラが立っていて笑えます。勤務先の中学でも正義感から、職員室中を混乱の渦にしてひと悶着。松山の空気になじめなかった坊ちゃんが、大好きなお清ばあさんのところに戻ります。『吾輩は猫である』とともに、一般読者にとっては漱石の魅力全開の作品ですよね。飼っているのが猫か犬かで、飼い主の性格がわかる気がしませんか??? みなさまもぜひ、新宿の住宅地にある「漱石山房記念館」にいらしてくださいな。