diary日 記 2021 / 01 / 01

「悔やまない」年にしましょう

『バラ色の人生』、『愛の賛歌』はピアフの代表作ですが、二曲とも作詞はピアフ自身です。数年前、立て続けにピアフの映画ができましたが、どれを観ても違和感がありました。映画ではピアフの脆く、悲劇的な人生と歌姫としての名声のギャップにばかり焦点が当たりますが、私は彼女の哲学に惚れてます。たとえば、代表作に私が大好きな『Non, Je ne regrette rien』、邦題が『いいえ、私は何も悔やまない』というのがあります。Rien de rien 、リアン・ドゥ・リアンを直訳すると「まったくなにもない」になります。よいことも悪いことも、私にとっては同じ。過去なんてどうでもいいといった内容を繰り返す歌ですが、CDから聴こえてくるピアフの歌声は逞しく、耳で感じる歌詞が私たち聴衆にパワーをくれます。

ピアフは1915年、パリ20区の労働者街で生まれます。母親はイタリア系移民で、カフェの歌手。父親は大道芸人でしたが、ふたりとも娘の育児を拒否。仕方なくノルマンディー地方で売春宿をしていた、父方の祖母に預けられます。十代なかばでストリート・シンガーで日銭を稼いで暮らしていたわけですが、そのころに歌手としての才能が萌芽。後にナイトクラブの歌手として本格的な芸能生活に入り、ジャン・コクトーやモーリス・シュヴァリエといった大物たちとの交流も手伝って、エディット・ピアフの存在感は揺るぎないものになります。同時期にドイツ占領下のフランスで、『バラ色の人生』が書かれ大ヒット。戦後すぐのアメリカ公演で、世界的なスターダムに上り詰めます。ハリウッドの大女優、デートリッヒがフランス語ができたことからピアフと親交を深めます。戦後のショー・ビジネスの世界は現在までアメリカの独走ですが、戦後の一時期、とりわけフランス人の歌手や俳優がかの地で活躍。開通したばかりのエールフランス機で、ピアフもパリとニューヨークを頻繁に往復してます。1949年のそんなある日、絶頂期のピアフにまたしても悲劇が降りかかります。 エディット・ピアフの最愛の恋人でフランス初のボクシング世界王者、マルセル・セルダンの乗ったニューヨーク行の飛行機が大西洋に墜落。フランス人の世界王者が珍しかったこともありますが、薄幸の歌姫のイメージから逃れられなかったピアフでしたから、相手に妻子がいようが国民はふたりの熱愛応援に湧きました。おりしもピアフのニューヨーク公演の当日の事故だっただけに、ドラマを上回る現実に落胆。ニューヨーク公演を前にしたピアフから、「一刻も早く来てほしいから、飛行機にして」といわれてマルセルが搭乗した経緯があっただけに、とてもショッキングな事件でした。飛行機墜落の悲報に涙しながら、ニューヨーク公演で『愛の賛歌』を歌い切ったピアフはまたしても悲劇の女王。マルセル・セルダンに捧げられた『愛の賛歌』でしたが、実は妻子あるマルセルとの別れの歌だったとの説もあります。悲しみのあまり酒とドラッグにおぼれたピアフが『愛の賛歌』の空前のヒットで蘇ります。生涯最後の恋人になったテオが、20才年下というのも彼女らしいです。以上、世の中に知られたピアフのプロフィールを書きましたが、リアン・ドゥ・リアンではじまる『いいえ、私はなにも悔やまない』という歌が、フランス語の学習にうってつけ。たとえばフランス語で「なにかわかりないこと、ありますか?」と聞かれたら、「ノン」より「リアン」がおしゃれかも。「リアン・ドゥ・リアン」と独り言をいうと気分がすっきりしますから、お試しください。今年も行けないんですもの、せめてシャンソンで満たされましょう。