diary日 記 2020 / 03 / 15

行かずに楽しむ、心の旅路

昨年の南仏旅行のこのページでエクス・アン・プロヴァンスを書きました。そうです、セザンヌが失意のパリ生活をたたんで、親が認めない女性を伴って帰った実家がエクスでした。生まれ育ったエクスの町から望む、サン・ヴィクトワール山のほかにも、多くの名作をかの地で残しましたが、彼が印象派の重鎮として評価されるのは没後。なんといっても芸術の都パリでしたから、モンマルトル界隈にセザンヌだけでなくルノワール、ユトリロ、ロートレックなど大勢の巨匠の卵たちが屯。ルノワールはパリに出た時点で、すでに作品が売れる画家でした。彼は生まれ故郷のリモージュで、十代から磁器の絵付け師の修行を積んでおりました。ところがリモージュの磁器産業の技術革新が進み、絵付けが量産できるプリント加工に移行。職を失ったルノワールはパリに出て、当時、ブルジョワのマダムたちのおしゃれに欠かせないエヴァンタイユと呼ばれる、扇子の柄の部分に絵付け。磁器で培ったノウハウがございますから、象牙や黒檀の部分に彩色を施しました。ですから彼は、若く貧しい画家たちの中では豊かな方で、妻子を養うに足る経済力がありました。トゥールーズという古い都市の貴族の坊ちゃんのロートレックは、実家からの潤沢な仕送りでモンマルトルの歓楽街の踊り子たちと遊び、自由気ままに絵筆を走らせていたのはよく知られております。セザンヌが育ったエクス・アン・プロヴァンスの町は、太陽王のルイ14世がヴェルサイユ宮殿を造って中央集権化に勤しむ以前は、パリより大きな町でした。

先回の南仏旅行はおおむね天候に恵まれましたが、セザンヌのアトリエを訪れた日だけが例外で、氷雨に降られました。キリスト教の祭日の「諸聖人の祝日」と重なっていたので、セザンヌのアトリエでも子供たちの姿が目立ちました。大人たちに紛れ、床に座っておとなしく解説員のマダムの話を聞く子供たちを眺めて私は、過ぎし日の自分の姿を重ねておりました。というのも、私がはじめて知った画家の名前はゴッホでもピカソでもなく、セザンヌだったからでした。小学生の6年間、日曜日に近所の保育園でやっていた絵画教室に通いました。かといって自分で習いたかったわけではなく、ピアノを弾くのが得意な姉とちがって取柄なしの私に、母が必死な覚悟で絵を習わせたのでした。川村先生とおっしゃるベレー帽を被った、れっきとした画家先生が毎週いらして、子供たちに水彩ではなく、最初から油絵を指導。絵画教室にイーゼルとカンバスと絵具箱の重たい一式を毎週、よく運んだものです。ある日、先生がポケットからレモンを出して、私が写生していた花瓶の横にそのレモンを置いてくださいました。秩序ある乱雑のセザンヌのアトリエの棚に、あのときと同じレモンがありました。川村先生はきっと、だれよりもセザンヌがお好きだったにちがいありません。コロナ禍で行き場所を失ったと思わないで、無限の記憶を手繰って、みなさまもぜひ自分探しの旅にお出かけください。