diary日 記 2016 / 03 / 01

「 アリとキリギリス 」

今、インターネットで「働かないアリ」の話題で盛り上がってます。アリたちを観察すると、よく働くアリ:普通に働くアリ:怠けるアリの比率が、いみじくも人間社会と同じだそうです。そして、よく働くアリだけを集めてみますと、やがて働かないアリがでてきて、2:6:2の法則通りになってしまうそうです。働きアリも立場によって働かなくなるわけで、なんとも相対的ですよね。アインシュタインがまさに、社会科学に当てはまってしまった。幼いころから私は、仕事が好きでした。藤沢市に辻堂という町があるんですが、三歳ぐらいの記憶の中で私は、サヤエンドウの実を摘んで母に渡すのが日課でした。母が床を拭いていると真似して、お手伝いならなんでも大好き。草を抜くとか、乾いた洗濯物を畳むとか、労働らしきことしかしなかった気がします。年子で2学年上の姉は、いつもラジオの学校放送を聴いて、字や絵を描いてました。その手のことに私はまったく興味がなくて、ひたすらお仕事。今も恥ずかしいほど勤勉な私はですが、「働くことが善である」とは思っておりません。逆は真ならずで、よく働くことは悪ではありませんが、かならずしも善でないにちがいないと、最近になって思います。働きたくなかったら働かなくていいとは申しませんが、それこそ2:6:2です。アリについていえば、「働かないアリの存在意義」という箇所がありまして、よく働くアリが倒れたら、倒れたアリに代わって働くための補助的な存在らしいですが、本当かしら? ここで私が尊敬しているフランスの詩人で、ギリシャのイソップ物語を集大成したラ・フォンテーヌ先生の『アリとキリギリス』が頭をよぎります。

わが国でも、童話で親しまれているあれです。冬の寒い夜、みすぼらしい姿に痩せ細ったキリギリスが、アリさんの家のドアを叩いて、食べ物を乞います。私たちが知っている、白いエプロンをしたアリのおばさんは瀕死のキリギリスに一度はお説教をしますが、最終的に彼を助けて、温かい暖炉の前で、温かいスープを恵んであげる。ところが原作は、そうではありません。アリのおばさんは、「夏、働かないで歌っていたんだから、冬になったら踊っていればいいでしょ!」といって、扉をピシャリと閉めてしまう。野垂れ死にするキリギリスが、改心などしない人間の性を体現しているわけです。白と黒、善と悪に二分できるほど人間社会は単純ではありませんが、私たちが知っている優しいアリのおばさんは世界に通用しません。いずれにしても、働かない社員がいるから、有能な人が目立つのはたしかです。どちらでも、生きる歓びを感じて暮らせれば最高。春待つ心が募りますわ。