龍之介がつなぐ、お釈迦さまとキリストさま

2015/9/15 

読書の秋を待たずして、最近、龍之介にはまってます。「読んでいる場合ではないっしょ。さっさと書きなさい!」とわかっていても、ついつい龍ちゃん。とうぜん芥川龍之介のことで、ふえるふえる、私の机のまわりに龍之介全集がたまりました。かつてというより、大昔に龍之介の小説を読んだときと今とでは、読後感がまったくちがう。以前にも再読のススメをこのページで述べましたが、「大人になったんだな」とか「若いころには気がつかなかったけど……」の箇所が再読すると浮かび上がります。その度合いが龍之介の作品が、とりわけ顕著のような気がするのは、私だけでしょうか。

そもそも龍之介再読のきっかけは、今年のはじめにたまたま読んだ『河童』でした。高校時代の通学の車中で読んだきり、45年ぶりでした。そう、私の読書生活は、横浜駅に直結したダイヤモンド地下街の<有隣堂>さんのおかげ。乱読もいいところで、<有隣堂>さんの棚に並んだ文庫を手当たり次第でした。今回の『河童』で驚いたのは、登場する河童のチャックやパックが喋っている言葉が、まるでフランス語でした。たといえば、「コワッ・ク・ケルカン」といった具合に、まるでどころか、河童語は紛れもなくフランス語です。高校時代は、フランス語のフの字も知らなかったんですもの、気がつくはずがありません。おかしかったのは河童のお産で、人間社会では子どもは親を選べませんが、河童は反対。お産の時に、この世に生まれて来たいか否かを子供が決めるという箇所も、見落としておりました。こうして龍之介に再覚醒した矢先に私は、7月のフランス旅行で仕組まられたかのように、『蜘蛛の糸』のシーンに遭遇したのでした。場所はブルゴーニュ産ワインの集積地として知られる、ボーヌの町のシンポルになっているオスピス・ド・ボーヌ。時は中世、莫大な富を築いたロラン夫妻が寄進した、修道院併設の施療院。見学も終盤に近づいたコーナーの壁に架かっていたフレスコ画を観たとたん、ぴぴぴっの電光石火。向かって右に、キリストの最後の審判で地獄に堕ちた人々が、両手で耳をふさいで全裸で逃げ惑う姿が描かれているではありませんか。それはまさに、うららかな朝、極楽の蓮池のまわりを散歩するお釈迦さまが覗いた、カンダタがいる地獄そのもの。キリストさまとお釈迦さまが、龍之介の世界で見事に合体。ここであなたが、どの宗教も同じなんだとおっしゃったとしたら、それは私の説明が稚拙な証拠。それはそうと、今の中学生や高校生の国語の教科書に、龍之介の小説が載っているのかしら? 秋の夜長のプレリュードでした。