セ・ラ・ヴィ、それはやさしい暮らしの合言葉

2012/11/15 

「セ・ラ・ヴィ」という、とても便利な言葉があります。フランス語で書くと、C' est la vieで、日本語では「それが人生さ」と訳されます。人生というと大げさなようですが、「セ・ラ・ヴィ」は今さらながら奥が深いと、最近になって思うようになりました。
たとえばムッシュが夕食用のバゲットを買うために、パン屋さんの列に並んでいるとします。ようやく順番がまわってきたものの、ムッシュの前のお客さまでバゲットが売り切れてしまいました。パン屋さんのマダムに、「終わっちゃったわ、残念ね」と告げられたときにムッシュの口を突いて出る言葉が、「セ・ラ・ヴィ!」です。
肩をすくめて、「セ・ラ・ヴィ!」といって踵を返す彼の表情にひょうきんさがただようのは、失望の原因がパンを買いそこなったからでしょうか。交通事故に遭遇するとか、惨事を目の当たりにした人々がつぶやく「セ・ラ・ヴィ!」には、さすがに悲しみとやるせなさがこもります。暗い世の中で暗い話題もなんですから、バゲットが買えなかったていどのネタに戻りましょう。

パリで暮らしはじめたころの私は、なにかにつけて一筋縄でいかないフランス人が、パン屋さんの「終わっちゃったわ、残念ね」の言葉に寛大なのはなぜかしらと、真剣に考えたものです。「列を作って待っていたのに、それはないでしょう」の一言ぐらい、あってもいいはずなのにと。売り切れてしまったのですから、仕方がないといえば、仕方ありませんが、せめて道に面したガラス戸に、「バゲット売り切れ」の張り紙があってもいいと思ったものです。不可解な思いでパリの町を歩きはじめて数年して、私の「パン屋さんのなぜかしら」に回答が出ました。
 「バゲットは買えなかったけれども、しかたがない。パン屋さん、焼いたバゲットが早く売れてよかったね」という、パリっ子たちの独り言が聞こえるようになったからでした。あるいは、「パン屋さんにバゲットが売れ残っていても、僕が、私が、まとめて買ってあげるわけではないものね」という、パリっ子たちの独り言が。「セ・ラ・ヴィ!」というあきらめの裏側に、おたがいの立場を認め合う気持ちがあるわけです。一本のバゲットで人生だなんておこがましいようですが、たしかにフランスは面白い国でした。